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竹堂先生遺文冢碑
斎藤竹堂は嘉永五年(1852)三十八歳で江戸で没した。
翌年九月十一日、義弟斎藤俊吉この碑を建立した。
竹堂の友人小野寺鳳谷の撰文、長谷景瞻の書並びに題額である。
供台石は福地文吾他六人の寄進によるものである。
斎藤竹堂
郷土の輩出した幕末の偉大な文学者、斎藤竹堂先生、竹堂先生の名は馨、字は士徳、通称は順治 竹堂はその号です。
文化十二年(1815)十月十一日沼部邑に生まれました。幼少の頃から秀才の名が高く、青年期を涌谷藩校月将館に、そして仙台藩学養賢堂に学び、さらに徳川幕府の昌平黌に学びました。
数多くの秀才の中で群をぬき抜擢されて昌平黌の詩文掛にあげられ、さらに昌平黌舎長となりました。天保十年(1839)二十五歳で「鍼盲録」を著わしてから嘉永四年(1851)三十七歳の「藩祖実録」、「尽忠録」、「鴉片始末」など三十余種を上梓しました。その内容は詩集、論説、随想、紀行など広範囲に及んでいます。嘉永五年(1852)二月十一日三十八歳でなくなりました。江戸高輪の東禅寺宗法院と陽山寺に葬りました。
昭和五十七年十二月
田尻町教育委員会